母の長野空襲話
母の月命日ですから通常は喪に服していますが、思い出を語るのも供養 と言う事で
1945年妻科に有った看護学校に母は通っていました
長野空襲本を脳内で再生しながら
空襲当日直接の攻撃を受けた訳では無いのですが、妻科から小島田へ帰宅するのは遮蔽物の無い場所を行くのでどうするかと と同方向へ帰宅する学生と話し合ったそうです
その結論は
比較的山沿いに歩く
だったそうで、相生橋を渡り小市橋経由を選択したそうです
夏の日に小市橋経由で小島田まで「歩く」と言うのは想像しただけで倒れそうですが、当時は普通だったのでしょうね
バスは少ないし、タクシーなんぞ燃料統制で輪を掛けて少なかったでしょう
途中陸軍の兵隊さんを乗せたトラックが来て
どこまで行くのだ
と聞いて来たそうです
此処から私の記憶が曖昧なのですが、トラックに載せて貰って小市橋辺りまで送ってもらったようです
だいぶ楽だった と言う話しでした
北國街道を歩けば遮蔽物も無く標的になる恐れも有りますから選択肢としては当然だったのですね
それにしても健脚です
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